なぜ聖書の神は人を殺しまくるのか?

聖書の神の悪行

実はこの記事を書いて保存したファイルがなぜか開けなくなりました。

2日にわたって書いたファイルが一度ふっ飛んだので、もう一度初めから書いてます。

聖書を読んでいてふしぎに思うのが、神がわりとあっけなく人間をほうむり去ることです。よく『神は愛なのです』とかクリスチャンの人は言うのですが、果たしてほんとに神は愛のある存在なのでしょうか?

調べていくと、その正反対の事実が浮かび上がってきました。

神は人間を愛するのではなく、むしろただの大量殺人鬼だったのです。

これから、そのことについて書いていきます。

人類を洪水で流し去る神

(創世記6~7章)地に人が増えはじめた頃、神の子らが人の娘の美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとっていました。

神の子と人の娘の間に、ネピリムという巨人が生まれました。

(※神の子とかネピリムというのがどういう存在なのかは、詳しく書かれていません。)

神は人の悪が地にはびこり、心に思うことがいつも悪いことばかりなのを見て、人を造ったことを悔いました。

「私が創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。私は、これらを造ったことを悔いる。」

しかし、ノアという人物だけはその時代の中の人々の中で正しく、完全な人でした。

世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちていました。

神はノアに言いました。

「私は、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、私は彼らを地とともに滅ぼそう。」

ノアとその家族、他の動物はオスとメスを一個体ずつ方舟に乗せて、地上に大洪水を起こしました。

地のおもてにいたすべての生き物は、人も家畜も、這うものも、空の鳥もみな地からぬぐい去られて、ただノアと、彼とともに方舟にいたものだけが残りました。

水は150日の間、地上にみなぎりました。


この話のさいしょの方で、神の子が人の娘を好き放題にしていた的な話があり、それについては聖書の中でとくに語られていません。

その後、なぜか急に人の中に悪がはびこるのを見て神が悔いたという記述がでてきます。人が悪いことをするので、ノア以外はすべて滅ぼそうと決心しました。

それで、悪を行う人といっしょに、動物や鳥や家畜もすべて皆ごろしにします。

洪水で流し去って、地から悪が一掃されました。

この後、ノアの子孫が地上に栄えることになります。

ところで、人間といっしょに滅ぼされた動物たちは、完全なとばっちりを食ってるように思います。彼らはべつに、悪いことをしたわけではないのですが……。

街を壊滅される神

ソドムとゴモラ
画像はWikipediaより引用しています。

(創世記18章)ソドムとゴモラという街に、人々の叫びは大きく、その罪は非常に重いあり様になっていました。

(※その罪の状況については、具体的に書かれていません。)

神はソドムとゴモラについて、その街を滅ぼそうと決めました。

アブラハムは神に言います。

「あなたは正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼされるのですか? たとえ、あの街に50人の正しい者がいても、あなたはなおその街を滅ぼし、許すことをされないのですか。
正しい者と悪い者を一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者を同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。
全地をさばく者は広義を行うべきではありませんか。」

神「もし50人の正しい者がいれば、その人々のために全ての人を許そう。」

アブラハムは答えて言います。

「私はちり灰に過ぎませんが、あえて申します。もし50人の正しい者のうち5人欠けたなら、その5人欠けたために町を全て滅ぼされますか。」

神「もしそこに45人いたら、滅ぼさないであろう。」

アブラハムはまた重ねて言います。

「もしそこに40人いたら」

神「その40人のために、そうしないであろう。」

アブラハムは言います。

「どうかお怒りにならず聞いてくださいますよう。もしそこに30人いたら」

神「そこに30人いたら、そうしないであろう。」

アブラハムは言います。

「今わたしはあえて言います。もしそこに20人いたら」

神「私はその20人のために滅ぼさないであろう。」

アブラハムは言います。

「どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに10いたら」

神「私はその10人のために滅ぼさないであろう。」

神はアブラハムと語り終わり、去っていきました。

アブラハムは自分の所に帰りました。


神は町の中に善人と悪人が何人いるかを把握してないように見えます。

街を滅ぼすさいの裁きの基準も、とくに決められてなくテキトーであるようです。

神にとって、人間とは何となくの気分で創ったり滅ぼしたりすればよいものであるかのように、見受けられます。

親に子供を殺せと指示する神

アブラハムとイサク
画像はWikipediaより引用しています。

(創世記22章)神はアブラハムを試みて言いました。

「アブラハムよ。」

「ここにおります。」

「あなたの子、あなたの愛するひとり子(イサク)を連れて山に行き、彼を焼いて生け贄としてささげなさい。」

アブラハムは朝はやく起きて、子供を連れ、神が示された所に出かけました。

イサクは言いました。

「父よ。」

「子よ、わたしはここにいます。」

「火とたきぎはありますが、生け贄にささげる子羊はどこにいますか?」

アブラハムは言います。

「子よ、神みずから生け贄の子羊を備えてくださるであろう。」

こうして二人はいっしょに行きました。

彼らが神の示された場所に来たとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せました。

アブラハムは刃物を執ってその子を殺そうとしました。

すると、神の使いが天から彼を呼びます。

「アブラハムよ、アブラハムよ。」

「はい、ここにおります。」

み使いが言います。

「子に手をかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたのひとり子をさえ私のために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを私はいま知った。」

アブラハムが目を上げると、うしろに角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいました。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それを子の代わりに生け贄にささげました。


何のために神はこのような試練をアブラハムに課したのか、よく分からない話ではあります。子供を殺せと命じられたわりに、アブラハムは翌朝はやく起きてちゃんと準備をして山に行くんですよね……。

普通もうちょっと暗い気持ちになるように思えますが、アブラハムが試練に苦悩する様は聖書中にはとくに書かれていません。

彼は神の命令にまるでロボットのように疑うこともなく従ってるように見えます。これが神を信仰するということなのでしょうか……。

道をゆずらなかった王を、その民ごと皆ごろしにする神

モーセ率いるイスラエル人は旅の途中、シホン王が治めるヘシボンという国を通ろうとしました。

モーセはシホン王に使者をつかわし、平和の言葉を述べさせました。

「あなたの国を通らせてください。私は大路を通っていきます。右にも左にも曲がりません。私は金で食べ物を買って食べますし、金で水を買ってそれを飲みます。歩いて通らせてくださるだけでよいのです。私はわれわれの神がくださる土地に行きます。」

しかし、ヘシボンの王シホンは、イスラエル人たちを通らせるのを拒みました。

神はモーセに言いました。

「私はシホンとその土地を、お前に渡し始めた。お前はそれを征服し始め、その土地を自分のものとせよ。」

シホンはイスラエル人を攻めようとして、その民衆をことごとく率いて戦いました。

しかし、イスラエル人はシホン王とその子らと、すべての民衆を撃ち殺しました。

その時、イスラエル人はシホン王のすべての町を取り、すべての町の男、女および子供を全て滅ぼして、一人も残しませんでした。

ただ家畜は、彼らが取った町々の分捕り物と共に、獲って自分の物としました。

彼らが攻めて取れなかった町は一つもありませんでした。神がことごとく彼らに渡されたためです。

ただ神が禁じた土地へは近寄りませんでした。

 

次にイスラエル人は、巡ってバシャンの道を上っていきました。

しかし、バシャンの王オグは、彼らを迎え撃とうとして民衆をことごとく率い、出てきて戦いました。

神はモーセに言いました。

「オグ王を恐れてはならない。私は彼と、そのすべての民衆と、その土地をお前の手に渡している。お前はシホン王にしたのと同じように、彼にするであろう。」

イスラエル人はオグ王とその民衆を撃ち殺して、ひとりをも残しませんでした。

その時、彼らはオグ王の町々を、ことごとく取りました。取らなかった町は一つもありませんでした。取った町は60に及びました。

これらは皆、高い城壁があり、扉があり、かんぬきをもって防備を固めた町でした。その他に、非常に多くの田舎町がありました。

イスラエル人はシホン王にしたように、全て滅ぼしました。

すべての町、男、女および子供をことごとく滅ぼしました。

ただし、すべての家畜とその町々からの分捕り物は、獲って自分の物としました。


しかし、聖書の神は道をゆずる気のない王を命をもって罰するだけでなく、その家族や民衆まで殺害し、家畜や金品をも強奪する方のようです。何とも、恐ろしい神ですね……。

ダンボールの中に腐ったミカンが一個あったら、新鮮なミカンといっしょに家ごと燃やしてしまうという暴挙にでます。聖書にはこのような、神の暴虐の歴史が記されていますよ。

まとめ

この記事では、聖書のさいしょの方にでてくる話をまとめてみました。

神の横暴はなかなか鬼畜なところがあります。人の世は不幸なことが多いですが、このような神が統治してる世界であれば、理不尽なことや争いごとが起こるのも無理はないかもしれません。

それにしても、聖書の記述というのはいたって正直なものです。普通、神が悪い人格なのであれば、聖書に記された神の横暴は修正したり改竄するだろうと思われますが。

書かれてから2000年以上も伝えられてきた聖書の中身は、キリスト教を信仰する人にとっては都合が悪いもののはず。

ですが、神の悪行を現代まで隠滅することなく語り継いできたのは、その点において最低限の公正さがあるようにも思われますね。

神は悪を行いますが、嘘までは吐かないのかもしれません。

神を信仰することは神の奴隷になることです。聖書にはそのことがはっきり記されています。聖書は神の霊感により記された書物と言われていて、そこに書かれているのは神の言葉だということです。

世界中のクリスチャンは神は愛であることを信じているのですが、筆者にはどうもそうは思えません。正直であるとは思いますが。

あなたは、聖書の神を疑うことなく信じますか……?

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